人は、目に見えるものには注意を払う。
数字、形、結果、評価。見えている
からこそ管理できるし、対処もしやすい。
ところが、目に見えないものになると、
急に扱いが雑になる。
実体がない、確認できない、
だから後回しにされがちだ。
けれど振り返ってみると、私たちは案外、
見えないものに守られて生きている。
例えば、信頼。
職場でも家庭でも、空気が穏やかに
回っている時、そこには
「この人は大丈夫だ」という目に
見えない安心感がある。逆にそれが
壊れると、表面上は同じ仕事、
同じ生活をしていても、
急に歯車が噛み合わなくなる。
信頼は形を持たないが、失った瞬間に
その存在の大きさに気づく。
神仏を信じ、尊ぶという行為も、その典型
だろう。多くの人は「困った時の神頼み」
という言葉の通り、苦しいときだけ神社に
足を運ぶ。しかし、それでは都合が良すぎる。
普段は見向きもせず、いざという時だけ
助けを求められても、神様だってそっぽを
向きたくなる、という感覚は人間関係と
同じだ。
信仰とは、お願い事を叶えてもらうための
取引ではない。本来は、日々無事に過ごせて
いることへの感謝や、目に見えない支えを
意識する姿勢そのものだ。朝を迎えられた
こと、帰る場所があること、何気ない日常が
続いていること。その背景には、自分一人の
力ではどうにもならない要素が確かにある。
これは「全一統体の原理」とも言える考え方
に通じる。現実世界のあらゆる物事は、目に
見える次元だけで完結しているのではなく、
見えない次元で互いにつながり、統合されて
いる。結果だけを追い、過程や背景、感謝や
敬意を軽んじると、どこかで必ず歪みが生じる。
見えないものを大切にするとは、非現実的な
話ではない。むしろ、現実を安定させるため
の姿勢だ。信仰も、礼儀も、感謝も、すぐに
成果として現れないからこそ、軽視されやすい。
しかし、それらが静かに土台を支えている
からこそ、見える世界が成り立っている。
改めて、自分は常に何かに守られている。
その意識を持って手を合わせること、
日常を丁寧に生きること。それだけで、
物事は不思議と穏やかに、うまく回り始める。
信じるとは、委ねることではなく、
気づき続けることなのかもしれない!!
